TOSHIHIKO URIU
瓜生敏彦は、瓜生家の二男として千葉に生まれた。彼は、「夢」という空想の世界を嫌い、パヤタスまたは、スモーキーマウンテンの苛酷な生活による現実の世界に到達する。19才にジャーナリストとしての志しをもち、25才で映画やテレビのカメラマンになる。1988年には、フィリピンを訪問する国際飢餓対策機構のプロデュースによるドキュメンタリー映画のに参加し、スカベンジャー(ゴミを生活の糧として生活する人々)の生活を中心に貧困という苛酷な現実や問題を取り上げたドキュメンタリー映画を撮影した。撮影する各シーン、取材などで出会った人々は彼に大きな影響を与えた。カメラが動き出すとそこには、現実の世界が映り、悲惨な貧困の世界に住む人々の生活が描き出された。
瓜生氏は、どうしても目的を達成しなければならない気持ちになった。彼にとって生きることは、自分の心の身近にある人々と共に生活することだった。特に次の世代を受け継ぐ子どもたちへの支援と保護、彼の目標と望みは、子供たちに良い教育を保証することであった。
目標を達成させるには、自立しなければならなかった。そこで瓜生氏は、クリエイティブ・イメージ(株)を設立した。同社は、パヤタスとスモーキーマウンテンの住民を支援し、人間としての生活を可能にすることを唯一の目的とするクリエイティブ・イメージ財団への資金調達のために、映画制作や貿易などに従事している。
住民の生活向上に対する瓜生氏の貢献と努力はいまや花を咲かし始め、人生に成功をもたらす機会を与えた結果ガ実現しつつあるのだ。気まぐれな政治の介入を断ち切り、パヤタスとスモーキーマウンテンの子供たちは、この競争社会での実際の生活がどんなものであるか、いつか目を覚まさなければならない。
クリエイティブ・イメージ(株)のスタッフは、クリエイティブ・イメージ財団への寄贈者でもあり、彼らの努力と献身的な姿勢は、パヤタスとスモーキーマウンテンの領域を超え同じような境遇にあるフィリピン国内の地方にまで手を差し伸ばすことができるでしょう。
1988年11月 、発展途上国への支援活動を目的とする国際飢餓対策のドキュメンタリーで、写真家であり、カメラマン、ジャーナリストでもある瓜生氏は、貧困のなかにも賢明に生きている人々の現状を世界に映し出した。
フィリピンを訪れた彼の最初の課題は、毎日大量のゴミが投げ捨てられることからその名がついた「ゴミとスカベンジャーの場所」スモーキーマウンテン(煙の山)であった。瓜生氏はそこで初めて貧困という本物の姿を目にしたのである。住民特に子供たちへの取材インタビューの中で瓜生氏が驚いたのは、「もし欲しいものがもらえるとしたら何が欲しいですか」との質問に対して、子供たち全員が、「学校に通い読み書きを習いたい。今の生活を変えることができたらいいなぁ」という返事だった。子供たちが持っている純粋な夢に瓜生氏は深い感銘を受けた。住民たちから「トシ」とよく呼ばれている瓜生氏は、子供たちを「ゴミ拾い」から救い出してやり、貧しい人たちを支援することをそこで決心したのである。以後この地域を頻繁に訪ねるようになった彼は、日が経つにつれて自分のやっていること即ち住民たちに様々な形で支援を与えることに喜びを感じるようになった。
1995年11月27日、スモーキーマウンテンの解体命令が出された。解体作業が開始したが、住民は自分たちに権利があると信じてその権利のために戦った。当時のラモス大統領は、スモーキーマウンテンを商工業地に開発するために21.2ヘクタールのゴミ捨て場の解体を命じた。地域は、住民のための4〜5階建てのローコストまたは、中コスト借地として整地される。しかし紛争は激化した。住民が、機動隊に向かって火炎瓶、石やゴミを投げ始めた。ついに住民と機動隊が衝突したのである。この紛争で一人が死亡し十数名が重傷、その中には、NHKのドキュメンタリー番組を取材していた瓜生氏もいた。彼は、銃撃を受け、腕と肝臓、脾臓に深い傷を負った。病院に運び込まれたが、その後休養のため帰国した。退院後2週間でフィリピンに戻ってきた瓜生氏は、ラモス大統領に彼の勇敢さと献身を評価され、その栄誉を与えられた。本当の貧困の姿を世に知らしめ、彼が制作したドキュメンタリーを見た人々の目が開いたのである。死を免れた瓜生氏は、以後自分の心の身近にある人たちへの訪問を2〜3年控えた。 |
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マラカニャン宮殿にて、スモーキー マウンテン解体での瓜生氏の ジャーナリストとしての勇敢さと 献身を称賛するラモス大統領 |
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スモーキーマウンテン解体 新聞記事 |
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瓜生敏彦の勇敢さと献身を栄誉するマラカニャン宮殿よりの手紙
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スモーキーマウンテンでの悲劇は、瓜生氏の人々への支援に対する信念を途絶えることはなかった。彼は、住民のために財団を設立するに到ったのである。住民たちの夢を実現し、生活を向上させ人生を楽しむ機会を与えるための財団だった。
スモーキーマウンテン
スモーキーマウンテンは、約40年にわたってマニラ首都圏のゴミが集積される21.2ヘクタールのゴミ捨て場である。ゴミが山のように大きく積り周辺に住む人たちは、このゴミで生計を立てた。地域には3000世帯あり、そのほとんどが地方から移住してきて仕事にありつけない家族である。病気にさらされ、生活が困難であるにも係わらず彼らは子供を増やし、そこに数十年も住みついている。健康において大変なリスクを伴い、ゴミの山から放出される煙の悪臭をものともせず、ゴミ拾いをしている彼らにとって、ゴミ漁りは、主な収入源である。これが、フィリピン国内における貧困の最悪状態を示す基準となった。1995年当時の政権は、地域を工業地に変換し、住民のためにローコスト、中コスト住宅を建設したが、生活は一向に改善せず、現実はまだそこに残っており、貧困はいまだ存在しているのだ。
しかし、スモーキーマウンテンの人々は、果てなき夢と希望をこころに持ち続けている。特に幼い心、子供の目には、いつか生活が良くなり、質素な生活であっても生きることができる場所、学校に通い、家族の当主にまともな仕事があり、ましな家に住めるという夢を絶えずもち続けている。
パヤタス
パヤタスは、都心から20キロ離れたマニラの郊外にあり、世界の三大スラムの一つとされている。スモーキーマウンテンに因んでスモーキーバレー(煙の谷)とも呼ばれている。フィリピン国内最大のゴミ捨て場であり、その面積はおよそ70ヘクタールで1日3000トンものゴミが毎日運ばれてくる。パヤタスは、2000年に起きた災難からその地名は世界的に知られるようになった。大きく積み上がった巨大なゴミの山が崩落し、その下周辺に住む数百人の住民の命が奪われた。その悲劇は、国家に暗い兆しを残した。居眠りをしているお役人たちの目を覚ました一撃であった。このような災難が起こることを予期できなかった責任があるのだ。 |
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崩落後ゴミ捨て場は閉鎖されたが、住民の生活を脅かすことになった。そこに住む人たちにとって、この耐えがたい悪臭による環境は、彼らの現実そのものなのである。毎日午後2時から午前2時までが彼らの一番忙しい時間である。その時間帯に各地域からゴミを満載したダンプトラックがやってくる。それを待ち構えているのは、スカベンジャーたち。彼らは、ゴミが捨てられた場所に殺到し、お金に換えられそうな貴重なゴミを拾い集める。スカベンジャーの1日の収入が200ペソないしそれ以下であるが、その日の生活はなんとか賄える金額である。彼らにとっては生きることである。「ゴミがあるところにはお金がある」と彼らがよくいうが、まさにそのとおりである。 |
ゴミ捨て場の下に住む住民の中には、パヤタスに住むことが彼らの運命だと信じている人もあれば、そこから抜け出してゴミ捨て場の外で新しい人生を夢見る人もいる。
改善
援助の手を差し伸べてくれるあらゆるNGOや財団のおかげで、とても人間が住む環境ではないゴミの山周辺の状況を改善し、生活がよくなりつつある。スラムから離れ発展した入植地での生活が待ち受けているのだ。スカベンジャーから身を引き、良質な生活環境の中で学校に通い、職場で仕事をしている強い決心を持った人間としての自分の姿が見えてくる。私たちは、生活をよくしたい人々のこの夢を実現させる為に手を差し伸べているのである。


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